2021年07月14日
兵隊さんとぼた餅
兵隊さんとぼた餅
No.19
私の祖父は、31歳でニューギニアで戦死したと戸籍にある。源蔵とゑいの長男豊男、次男が英二である。当然私は祖父を知らない。
つれあいの祖母はわたしが26歳の頃の72歳まで生きた。子供の頃から、おばあさんと呼んでいたが今思うと小学一年生の頃おばあさんは52、3歳だったのだ。
小学生の時の勉強は、先生になりたかったという祖母が殆ど教えてくれた。
その祖母が良く祖父豊男の事を話してくれた。二人の間には私の母と叔母の二人の娘がいた。その母が家を継いで、婿を取ったのである。私の祖母は祖父と従兄弟合わせで結婚した。3軒先の祖祖母の実家から嫁に来たのだ。何歳か年下の祖母は、家の前を通って通学する祖父を憧れの目で見ていたと話してくれた。
農家の跡取りとして、鹿島農学校(現在の鹿島高校)に通い、卒業後も農業の研究会に行ったり、鹿島町内にあった漢詩の塾に通ったりしたという。出征前には、鹿島で初めて葡萄栽培を行い、販売していた。その葡萄畑も祖父の出征で駄目になってしまったという。
最初の出征では近衛兵として徴兵された。言っていいのか分からないが、仏壇を整理していたら皇居の警備計画図が出てきた。その後任期を終えて帰ってきた祖父は、祖母に皇宮警察に応募したいと言ったという。祖母は、祖父に東京に行かれたくない一心で反対したと。しかし、もし皇宮警察になっていたら、ニューギニアで戦死する事が無かったと後悔していた。
祖父が出征していた頃の話で、何々部隊が村に駐在した時、隊長はうちで滞在したらしい。うちの蔵に隊の物資を運び込んで保管したらしい。うちの庭に太い幹の柿の木があるのだが、その木に隊長の馬を繋いでいたと、よく子供の頃聞かされた。
兵隊にはお盆に限り、墓参りだけが許されたそうだ。実家に寄ることは出来ない。それを知った祖母と母親の祖祖母は、ぼた餅を重箱に詰めて、お墓に備えたと言う。墓参りにきた兵隊さんの祖父がぼた餅を食べられるようにという親心であった。
戦争を生き残った村の長老から、祖父が生きていれば村長として村のリーダーになっていたであろうと良く言われた。
18歳の頃の日記が残っているが、病弱だった父親に代わって田畑の管理をし、どの田んぼから何俵の年貢が上がるのか、収支が記載された書付けが残っている。
若くして夫を亡くした祖母は、義母とふたりで家を守り、娘二人を育てた。広大な田畑を女手で子供の頃まだ飼っていた大きな牛を操って耕した。女ばかりの女系家族に長男の私が生まれた時は、母と祖母の喜びはいかんばかりか、計り知れない。そのせいか、何をするのも危ない危ないと大事に育てられたせいか、大人しい子に育った様だ。笑
Posted by ミツクニ at 19:23│Comments(0)
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