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ミツクニ
ミツクニ
安中市に生息

2021年06月28日

鎌倉とグリーン車






鎌倉とグリーン車
No.12
子供の頃から聞かされた家の歴史を伝えられたら。

本文

この叔父が亡くなった時の事を覚えている。私の祖母も若くして戦死した豊男亡き後を、二人の娘を曽祖母と二人で農業をしながら育ててきた人だ。
小学生の私と祖母と寝ていたのだが、祖母が朝方突然玄関に英二さんが来たと起き出して行った。
そんな日、叔父が亡くなった知らせが届いた。
夫を亡くした叔母は、会社を継がなければならなかった。
それでも女社長として、苦労を重ねてそれなりに存在感を得るようになった。鎌倉からグリーン車で毎日日本橋に通うことを聞かされて、グリーン車の存在を初めて知った。
洋服、着物は三越の仕立て。田舎に来る時は、いかにも東京の人的な派手なワンピースに三越の買い物袋にお土産の洋菓子を持ってきた。
母の祖父の源蔵も身体が弱かったので、農家の長男にも関わらず農業は、妻に任せて保険屋を自転車でやっていたという。
この源蔵爺も良く東京の白木屋デパートに行って、トランクにお土産を買ってきてくれたと母が話していた。この叔母の存在は田舎の母や私に影響を与えた事は間違いない。
叔母は、銀行に入る前に日劇ダンシングチームに憧れて、願書を出したら合格通知が家に届いたというくらいの女性だ。厳格な父親に合格通知を破られて、子供だった叔母はそれで諦めてしまったらしい。
そんな叔母が夫が出征している間、鹿島の実家に疎開したことがある。陽気な叔母は、たちまち村の有名人になり、わざわざ見に来る若者までいたそうだ。その時のファンの爺さん達にも後年話をよく聞かされた。
鎌倉に遊びに行くと、もういい年だった叔母が小学生の自分を材木座の海岸に海水浴に連れていってくれた。水泳もプロ級だった叔母が泳ぎも教えてくれた。
プールで泳げばその綺麗な泳ぎに見物人が出来、鹿島の明石の海では、地元の若者に混じって女一人沖の漁船まで泳いだという。
男達は漁船に上がり休ませて貰えたが、女は船に乗せられないと船縁につかまって休んだと言っていた。


Posted by ミツクニ at 19:46│Comments(0)
 
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