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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2021年06月25日

オニマとチーちゃん






オニマとチーちゃん
No.11

第一エンジニアリングに入って2年目ぐらい、24歳ごろだろうか。東京の親戚の叔母様から食事をしようとお誘いがあった。
叔母様と言っても、母の義叔母でまだ60代だった。
母の若くして戦死した父豊男の弟英二の連れ合いで、子供の居なかった叔母は母を子供のように可愛がり、自分も孫のように可愛がってくれた。
大学を中退して、心配していたようだが、真面目に働いていると知って少しは安心したのだろうか。
この叔母も、夫を50代で亡くしている。
農家の次男だった英二は高校に進学する事を許されず、中学卒業すると横浜銀行にでっちに出された。銀行でのお茶汲みから始まって、夜学に通わせてもらったのだろうか、銀行の業務をするようになる。
非常に優秀で仕事が認められるようになるが、この当時でも後から入ってくる大学出が出世していくのを辛い気持ちで見ていたのである。それでも後に、神奈川の日本油脂に出向し、部長の職についた。田舎の母(私の曾祖母)に部長の椅子に座った写真を添えて、判子を押す立場になったと手紙を送ってきた。
日本油脂で塗料の製造を学び、のちに日本油脂に顔料を卸す商社として、独立するのである。日本橋に構えた会社は日新物産。
英二の連れ合いとなる叔母は、銀行員の硬い家庭に育ち、横浜銀行に就職して英二と結ばれることになる。
この叔母は発展家で、当時銀行の慶應ボーイや一流大のボーイフレンドと石神井公園でボートに乗ったりデートを楽しんでいたそうだ。
そんなモテモテの叔母が、大学出でも都会の人でもない英二さんを選んだのよとお惚気を聞かされたことがあった。
世田谷に初めての家を買って所帯をもった。4、5歳のころ母に連れられて泊まりに行った写真がある。遊びに行くと夕食はすき焼きで叔父が鍋奉行してくれた。
家には叔母の独身の妹も同居しており、叔父のことをオニマと、姉の事をチーちゃんと呼んでいた。
お兄様を約してオニマ、三姉妹の次女なのでちっちゃいお姉ちゃんでチーちゃん。
チーちゃんが連れていってくれた、世田谷のスーパーマーケットの記憶が鮮明に残っている。すっごい明るい照明に商品がならび、そこは外国のようで、ハーシーズの板チョコのおっきいのを買ってもらったのだ。
その後、会社も大きくなり、故郷の鹿島に海があって似ているというので、鎌倉に家を建てる。
よく遊びにいったので、坂を登った鎌倉市西御門をよく覚えている。家を建てて、母親を初めて箱根に旅行に連れて行って親孝行をした後、病気で52歳でこの世を去ることになる。


  
Posted by ミツクニ at 18:19Comments(0)