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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2021年07月21日

幻の河豚屋

幻の河豚屋
No.21

 そんな祖母も72歳で病院で亡くなった。亡くなって軽くなった祖母を自分が抱かえて乗用車に乗せて実家に連れて行った。父親の葬儀から一年しかたっていなかった。
 潮来の先生は、確か木か木部先生だった。潮来は父親が麻生高校に明石から自転車で通学していたので、通り道の中華屋、牡丹江に家族で行った事がある。
 子供の頃鹿島には病院が無かったので、バスで佐原の病院まで通った記憶がある。香取神宮の山にあった病院は、なんだったんだろう。眼科?歯科?耳鼻科?なんか動物が下の方で飼われていた記憶があるけど。
 佐原の街中の病院にも行った、耳鼻科だったと思うけど、凄い怖い先生で親が怒鳴られていた事を思い出す。弟が逆さまつげで治療したのも佐原の病院で、一緒に行ったので覚えている。
 子供の頃、鹿島から佐原には親とバスで行くのだが、必ず潮来あたりで、バスに酔って乗ってられず途中下車してた。遠足のバスも苦手だった。佐原の高校に通学するようになったときには、鹿島線が開通していたので助かった、バス通学だったら大変な事だった。
 子供の頃の思い出と言えば、夏休みの子供会で船橋ヘルスセンターに行った事だ。家族旅行で、そこで初めてクリームソーダとホットケーキを食べたかも知れない。よその家族が頼んだのを見て、自分も食べたいと注文して貰った。
 定かでない子供の頃の記憶があるのだが、夢だったのか現実なのか分からない思い出がある。鹿島のバスターミナルががんけの坂の上にあった頃、その端にフグを食べさせる店があって、父親と一緒に行った。壁にフグ提灯と、ヒレがいくつも張り付けてあった記憶があるから間違いないと思うのだが、誰も覚えてない。そこで何を食べたのかは記憶が無い。
 その近くにあったソロバン塾は、小学生の間でブームになったので、みんな通ったのでよく覚えている。ソロバン塾の帰りに大町にあった焼そば屋に寄って焼そばやカキ氷を食べる小学生で一杯だった。
 小学生の頃、鹿島の街中の親戚に遊びにいくと、高校生の従兄弟がいていつもコーラのホームサイズを飲んでいた。その頃は空瓶をお店に持っていくと10円か20円貰えた。高校生の従兄弟に言いつけられるままに、良く空瓶をお店に持っていって、そのお金でまたコーラを買ってこさせられた。
 当時の子供のジュースと言ったらバヤリースオレンジか三ツ矢サイダーと決まっていた。粉末のジュースが流行ったこともあった。家での夏の飲み物と言ったら、麦茶だが当時は砂糖が入っていて甘い麦茶だった。




  
Posted by ミツクニ at 19:18Comments(0)

2021年07月16日

ひろし


ひろし
No.20

 二十代で夫を戦争で失い、2人の娘を義母と2人で育てた祖母、静江は私たち3兄弟のおばあさんとして、食事から勉強、家の家事と3人の面倒をよく見てくれた。
 うちの母親は、婿取りで家のことをするよりも外に出て仕事をする事が好きな活動的な人であったので、必然的に娘に代わって家のことをこなしていた。
 祖母は5人兄妹の長女で、弟の長男と次男、妹2人の三姉妹であった。明治生まれの厳しい父親に育てられた。妹二人がお盆や彼岸には必ず家に挨拶にきたが、姉妹と思えないほど丁寧な挨拶をかわすのだ。手土産は老舗の和菓子で、今のようにコンビニの菓子などは持ってこない。
 仏間の畳に三つ指をついて、丁寧に挨拶を繰り返す。弟の次男も姉を慕っていたのだろう、ボーナスが出るたびに、掃除機などをプレゼントしてくれたのを覚えている。私が中々実家に帰れない時には、代わって畑の草を高齢の身なのに、良く刈ってくれた。
 祖母の信条は幼いころからよく聞かされた。日頃は節約に努めて贅沢をせず、村の寄付などを求められた時は恥ずかしくない額を寄付するようにと。ご先祖さまを大切にする。正月には若水と言って井戸から汲んだ水を毎朝門松にかけるように、小さい頃長男だからとやらされた。お盆の茄子や胡瓜の馬も祖母と一緒に作らされた。当時は北浦にお盆様を流したが、その藁の舟も祖母が作った。
 前にも話したが、農耕用の牛が女だと舐めて言うことを聞かないので、舐められないようにするのが大変だと。そんな祖母は、50代か60代に肺癌にかかった。子供だったので良く覚えてないが、丸山ワクチンを調べて、東京までいき田舎でワクチンを打てるように手配していた。
 鹿島にはまだ医院が殆どない頃、うちのかかりつけは潮来の何先生だったか出てこない。ちなみに母が三男を出産したのも潮来の病院だった。私と次男は自宅で生まれた。次男とは2歳違いだが、出産の時の事を覚えている。
 その潮来の先生に、東京から送って貰った丸山ワクチンを定期的に打ってもらっていて、何回かついて行ったので覚えている。わたしが第一エンジニアリングから帰ってきて今の会社に入ったばかりの頃、転倒して頭を打った影響か祖母は具合が悪くなった。
 それと同時期に母も、腎臓を悪くして手術になり入院していた。大学生だった三男の弟が、泊まりこんで付き添っていた。つれあいの父親はその前年に肝臓ガンで亡くなっていたので、私が祖母を面倒見るしか無かった。親戚の叔母さんに付き添って貰って、千葉大に検査に行ったり、入院させたりで、この頃が一番心細かったかもしれない。
 祖母はそれがきっかけで痴呆気味になり、鹿島病院に入院した。よく見舞いに行ったが、寝ていると良く寝言でうなされていた。男の名前、ヒロシヒロシとうわごとで言うので、夫を無くしてから独り身でいた祖母も想いのある男性
がいたのかと、若い自分は複雑な気持ちであった。
 その名前の主が誰であったか数年後?数十年後?判明した。仏壇の位牌を綺麗に拭いていたときに、寛志 享年5歳と書かれていた文字が見えた。そういえば、母の前に長男が産まれて幼くして亡くなったと聞いたことがあった。祖母は意識のはっきりしない中で、亡くなった子の面影を見て、名前を呼び続けていたのだと。



  
Posted by ミツクニ at 18:22Comments(0)

2021年07月14日

兵隊さんとぼた餅



兵隊さんとぼた餅
No.19

 私の祖父は、31歳でニューギニアで戦死したと戸籍にある。源蔵とゑいの長男豊男、次男が英二である。当然私は祖父を知らない。
 つれあいの祖母はわたしが26歳の頃の72歳まで生きた。子供の頃から、おばあさんと呼んでいたが今思うと小学一年生の頃おばあさんは52、3歳だったのだ。
小学生の時の勉強は、先生になりたかったという祖母が殆ど教えてくれた。
 その祖母が良く祖父豊男の事を話してくれた。二人の間には私の母と叔母の二人の娘がいた。その母が家を継いで、婿を取ったのである。私の祖母は祖父と従兄弟合わせで結婚した。3軒先の祖祖母の実家から嫁に来たのだ。何歳か年下の祖母は、家の前を通って通学する祖父を憧れの目で見ていたと話してくれた。
 農家の跡取りとして、鹿島農学校(現在の鹿島高校)に通い、卒業後も農業の研究会に行ったり、鹿島町内にあった漢詩の塾に通ったりしたという。出征前には、鹿島で初めて葡萄栽培を行い、販売していた。その葡萄畑も祖父の出征で駄目になってしまったという。
 最初の出征では近衛兵として徴兵された。言っていいのか分からないが、仏壇を整理していたら皇居の警備計画図が出てきた。その後任期を終えて帰ってきた祖父は、祖母に皇宮警察に応募したいと言ったという。祖母は、祖父に東京に行かれたくない一心で反対したと。しかし、もし皇宮警察になっていたら、ニューギニアで戦死する事が無かったと後悔していた。
 祖父が出征していた頃の話で、何々部隊が村に駐在した時、隊長はうちで滞在したらしい。うちの蔵に隊の物資を運び込んで保管したらしい。うちの庭に太い幹の柿の木があるのだが、その木に隊長の馬を繋いでいたと、よく子供の頃聞かされた。
 兵隊にはお盆に限り、墓参りだけが許されたそうだ。実家に寄ることは出来ない。それを知った祖母と母親の祖祖母は、ぼた餅を重箱に詰めて、お墓に備えたと言う。墓参りにきた兵隊さんの祖父がぼた餅を食べられるようにという親心であった。
 戦争を生き残った村の長老から、祖父が生きていれば村長として村のリーダーになっていたであろうと良く言われた。
 18歳の頃の日記が残っているが、病弱だった父親に代わって田畑の管理をし、どの田んぼから何俵の年貢が上がるのか、収支が記載された書付けが残っている。
 若くして夫を亡くした祖母は、義母とふたりで家を守り、娘二人を育てた。広大な田畑を女手で子供の頃まだ飼っていた大きな牛を操って耕した。女ばかりの女系家族に長男の私が生まれた時は、母と祖母の喜びはいかんばかりか、計り知れない。そのせいか、何をするのも危ない危ないと大事に育てられたせいか、大人しい子に育った様だ。笑






  
Posted by ミツクニ at 19:23Comments(0)

2021年07月12日

BIG BOX

BIG BOX
No.18

 高田馬場と言っらBIG BOX!
駅前に建つアミューズメントビルだ。今でもあると思うけど、もう40年前からあるんだよね。
 昔は赤の壁だったけど、今はネットで見ると青みたい。
 深夜の喫茶のバイト仲間と、朝6時に仕事を終えてBIG BOXのサウナに行く。サウナで風呂に入り風呂上がりにバスローブを羽織り、ピザを頼んで皆で生ビールを飲む。たまの贅沢な気分を味わえる時間だった。
 このBIG BOXでは、一階の広場でFMの収録が行われていて、おすぎとピーコのどちらか一人がよく出演していた。あのねのねもよく出ていたなあ。
 山口百恵のプレイバックpart2が流れ、当時新宿歌舞伎町で全盛だったディスコでは矢沢永吉の時間よ止まれがチークタイムの定番だった。
 BIG BOXにはボーリング場、クレー射撃ゲームなど、アミューズメントが揃っていて、よく遊んだ。
 食べ物で思い出すのが、駅前の交差点の白ゆりの反対側のビルの地下にあった、カッパ軒だ。中華の丼物専門店で、美味しくて大好きだった。牛肉煮込み丼、麻婆丼、その他中華のメニューを丼に仕立て、人気があった。特に牛肉煮込み丼が私のお気に入りでした。ググってみたがここはもう無くなっていて、残念だ。
 中華の丼物の発祥なんじゃないかな。
 高田馬場から西武新宿線で一駅の新宿歌舞伎町には、ディスコが全盛の頃でよく通った。新宿で派手なやつがいると、田舎の知り合いだったりで、田舎から出てきたやつほど、ファッションも派手だった。新宿には文化服装学院があったので、奇抜なファッションの子が結構いた。




  
Posted by ミツクニ at 20:34Comments(0)

2021年07月09日

パチモンの高級時計

パチモンの高級時計
No.17

深夜の喫茶店のバイトが本職になり、大学に行かなくなった。深夜のバイト仲間は早稲田の2部の学生が多かったが、本職やヤバイ経歴の人もいた。
 バイトから社員になり深夜から朝番のホールに移った。朝番はモーニングとランチの2度ピークがある。しばらくホールのウェイターをしていると、自分がぼっちゃんと呼ばれている事に気がついた。ボーッとしている方のぼっちゃんだ。回転の速い、早番の動きについていってなかったらしい。
 そんな事もあったが、ホールの仕事もこなせるようになり、主任になった。朝の喫茶店は一人客が多く、一人でトレーにお冷を20個近く持ち、無くなるまで20人分のオーダーを取ってくる。当時は、全部頭に入れてキッチン前に戻ってから、伝票を書くのだ。今では神業の様だが、誰もが当たり前にやっていた。
 そうこうして、2年でサブマネージャー、黒服まで上り詰めた。
従業員を集めてのミーティングでは挨拶の仕方から声の出し方、サービスの仕方まで教育した。営業中も声が出てない従業員を呼び出しては、注意をしたり教育には力を入れた。
 バイトの面接採用もした。当然可愛い子が面接に来れば、時給高めで採用した。新しいランチメニューや食事メニューも考えた。食事メニューも増えて、ハンバーグやカレー、生姜焼きもやる様になった。そのおかげで、自炊には困らなくなった。
 21か22歳の頃の話である。
やばい経歴の人の話は面白かった。パチモンの時計を高級時計と偽って、田舎の街から街と旅しながら売るのだ。
 昔のスポーツ新聞には、高級スポーツカー運転手募集という求人広告が必ずあった。4人1組でスポーツカーに乗り、売れるまで帰れない旅に出るのだ。
 すみませんがこの時計を買って頂けませんか?高級時計を扱っているんですが、火事にあいましてどうにか時計だけは持ち出したんですが、着の身着のままで。普段の売値は100万何ですが、どうしても現金が欲しいので5万でいいです。という感じで、ホテルでロールプレイングまでして新人を鍛えて売り歩く。売り尽くすとさっさと別の街に移動するのだ。
 




  
Posted by ミツクニ at 21:04Comments(0)

2021年07月07日

喫茶 白ゆり










喫茶白ゆり
No.16

 第一エンジニアリングに入る前、大学に行かず喫茶店で働いていた時のこと。住んでいた高田馬場の思い出。昭和53年1978年に時間は戻る。
 大学に入って、体力と暇を持て余していた私は、深夜のバイトを始める事にした。高田馬場の駅前の交差点の地下鉄東西線の階段を降りた地下一階にあった喫茶白ゆりだ。最初はキッチンに入り、一年程で料理を覚えた。
 喫茶店なのでナポリタンやピラフ、サンドイッチ、パフェ、と料理は簡単なものだった。焼きプリンは本格的で、深夜組が仕込みを担当した。卵と牛乳と砂糖、バニラエッセンス、砂糖を煮詰めてキャラメルも作る。業務用のオーブンで蒸し焼きにして、20個ぐらい作るのだが、出来上がりのタイミングが難しい。柔らかければ崩れてしまい、硬ければ美味しくない。すが入らないように焼き上げる。
 スパゲティは茹でて、サラダ油をまぶして、冷蔵庫に一晩置く。今のパスタと違い、昔のナポリタンやミートソースは、茹でて一晩置いた麺を使うのだ。
 この白ゆりは、ルノアールとと同じような大型喫茶店で、朝から翌朝まで営業して、1日1,000人の来客がある、繁盛店だ。高田馬場駅前の交差点、東西線の入り口にあるので朝はモーニングセットを頼むサラリーマンで一杯になる。昼もランチを求めるサラリーマンや学生で混雑する。
 高田馬場という土地柄、早慶戦の時には早慶戦後の飲み会で酔った早大生の団体が押し寄せる。深夜に近い遅い時間に、20人や30人の団体が何組も入ってくるのだ。飲み方を知らない新入生がベロベロになって担がれてくる。注文は大抵パフェだ、フルーツパフェやチョコレートパフェが20個.30個と注文される。
 チョコレートパフェなら手間がかからず何個でも簡単に出せるが、フルーツパフェとなると、リンゴを笹切りしたりしなければならず、キッチンはパニックになる。当時で1日50万を売り上げた。
確か当時は、阪神の岡田が鳴り物入りで早稲田の野球部に入り、大学野球も盛り上がっていた。
 店でかけるレコードはマネージャーが選べるので、この頃流行ったジャズのヒュージョンや映画音楽を選んで買えるのが嬉しかった。グローバーワシントンJr.のワインライトがお気に入りでした。


  
Posted by ミツクニ at 18:36Comments(0)

2021年07月05日

肝臓ガン



肝臓ガン
No.15

 第一エンジニアリングの話しに戻ろう。
 3年目位の時に、父親が肝臓ガンになり、当時は肝臓は切れないと言われていたが、波崎の労災病院にたまたま名医がいて、手術できることになった。手術は成功して術後も自宅で静養していた。
 母とすれば今後の心配もあって、長男である私に帰って貰いたく、赤津社長に何回か手紙を出したようだ。
 そういうこともあってだが、コーヒーメーカーの開発製造に、自分なりに行づまりを感じていた。赤津社長も父親を若くして無くしていて、それをきっかけに武田社長の所を去ることになった経験から、留まるように説得されたが退社して鹿島に帰ることになった。
 帰省してまた、従兄弟のアニキに、懇意にしているやり手の社長がいるから、会ってみないかと言われる。その社長の会社はまだ小さいが、コンビナートの大手化学会社の仕事を直接しており、将来性抜群だと。
 その社長とアニキの間の話では、私が入って仕事を覚えたら子会社を作るという事になっていた。また同じような話しなのだが性懲りも無くその社長宅にアニキと会いに行く事になるのである。
 会社の後輩に、何で○野辺さんはうちに入ったの?と聞かれた答えがこれだ。
 ここから先の話は、10年後に語る事にしよう。







  
Posted by ミツクニ at 19:20Comments(0)

2021年07月02日

農家の屋敷










農家の屋敷
No.14

今入母屋の和風、書院造り50坪を建てると坪80万で4,000万というところか。小学生の時に建てたのだから、自分の家の山と親戚の山から松の梁と杉の柱を調達して、庭で木の皮を剥いだのを覚えている。棟梁は、親父の明石の同級生、子方の若い衆と年配の職人の3人、かかっただけの常用払いである。材料、金物は当家が買って支給する。
当時最新の水冷クーラーを入れた。井戸水を使って冷却フィンを冷やす仕組み。鍋物がダイニングテーブルで出来るように、ガスの配管コンセントも床に取り付けた。お風呂は、灯油のボイラーで給湯する。村では初めての二階建てだった。
 母屋の新築の後に米の乾燥機が入る天井の高い物置倉庫も建てた。当時の屋敷内には、豚小屋、鶏小屋、杉の枝を入れておく燃料小屋、製茶のための大きな焙烙の小屋、牛小屋、肥料小屋、があった。直径2メートル程の丸い水槽があったが、何の為なのか覚えていない。防火用水かな?農業用の貯水?
 母屋以外に蔵と言って、蔵と隠居屋がくっ付いた建屋もあり、まだ健在だ。家の北側には1.5m程の土手が盛ってあり、その上に槙の生垣がある。他の三方は1.8m程の槙の生垣で囲われている。
庭には農家には珍しく古くからヒバや槙の植木が植えられて、灯籠や小さな池もあった。どの時代の誰が庭を作ったのか分からないが、物心ついた時から植っていた。
 なぜ農家には珍しいのか、昔米農家は庭一面に筵を引いて籾米を天日干しするので、植木を植える場所も惜しかったのだ。
 今でもあるが、屋敷の西側にニッキの木があり、子供の頃、誰に教わったのか、ニッキの根を掘って乾燥したものをかじるとニッキの味がした。タケノコの皮で梅干しを包んでしゃぶったり、ヤツデの実を玉にして竹鉄砲を作ったりしたものだ。


  
Posted by ミツクニ at 18:16Comments(0)