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ミツクニ
ミツクニ
安中市に生息

2021年07月16日

ひろし


ひろし
No.20

 二十代で夫を戦争で失い、2人の娘を義母と2人で育てた祖母、静江は私たち3兄弟のおばあさんとして、食事から勉強、家の家事と3人の面倒をよく見てくれた。
 うちの母親は、婿取りで家のことをするよりも外に出て仕事をする事が好きな活動的な人であったので、必然的に娘に代わって家のことをこなしていた。
 祖母は5人兄妹の長女で、弟の長男と次男、妹2人の三姉妹であった。明治生まれの厳しい父親に育てられた。妹二人がお盆や彼岸には必ず家に挨拶にきたが、姉妹と思えないほど丁寧な挨拶をかわすのだ。手土産は老舗の和菓子で、今のようにコンビニの菓子などは持ってこない。
 仏間の畳に三つ指をついて、丁寧に挨拶を繰り返す。弟の次男も姉を慕っていたのだろう、ボーナスが出るたびに、掃除機などをプレゼントしてくれたのを覚えている。私が中々実家に帰れない時には、代わって畑の草を高齢の身なのに、良く刈ってくれた。
 祖母の信条は幼いころからよく聞かされた。日頃は節約に努めて贅沢をせず、村の寄付などを求められた時は恥ずかしくない額を寄付するようにと。ご先祖さまを大切にする。正月には若水と言って井戸から汲んだ水を毎朝門松にかけるように、小さい頃長男だからとやらされた。お盆の茄子や胡瓜の馬も祖母と一緒に作らされた。当時は北浦にお盆様を流したが、その藁の舟も祖母が作った。
 前にも話したが、農耕用の牛が女だと舐めて言うことを聞かないので、舐められないようにするのが大変だと。そんな祖母は、50代か60代に肺癌にかかった。子供だったので良く覚えてないが、丸山ワクチンを調べて、東京までいき田舎でワクチンを打てるように手配していた。
 鹿島にはまだ医院が殆どない頃、うちのかかりつけは潮来の何先生だったか出てこない。ちなみに母が三男を出産したのも潮来の病院だった。私と次男は自宅で生まれた。次男とは2歳違いだが、出産の時の事を覚えている。
 その潮来の先生に、東京から送って貰った丸山ワクチンを定期的に打ってもらっていて、何回かついて行ったので覚えている。わたしが第一エンジニアリングから帰ってきて今の会社に入ったばかりの頃、転倒して頭を打った影響か祖母は具合が悪くなった。
 それと同時期に母も、腎臓を悪くして手術になり入院していた。大学生だった三男の弟が、泊まりこんで付き添っていた。つれあいの父親はその前年に肝臓ガンで亡くなっていたので、私が祖母を面倒見るしか無かった。親戚の叔母さんに付き添って貰って、千葉大に検査に行ったり、入院させたりで、この頃が一番心細かったかもしれない。
 祖母はそれがきっかけで痴呆気味になり、鹿島病院に入院した。よく見舞いに行ったが、寝ていると良く寝言でうなされていた。男の名前、ヒロシヒロシとうわごとで言うので、夫を無くしてから独り身でいた祖母も想いのある男性
がいたのかと、若い自分は複雑な気持ちであった。
 その名前の主が誰であったか数年後?数十年後?判明した。仏壇の位牌を綺麗に拭いていたときに、寛志 享年5歳と書かれていた文字が見えた。そういえば、母の前に長男が産まれて幼くして亡くなったと聞いたことがあった。祖母は意識のはっきりしない中で、亡くなった子の面影を見て、名前を呼び続けていたのだと。



Posted by ミツクニ at 18:22│Comments(0)
 
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