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2021年07月21日

幻の河豚屋

幻の河豚屋
No.21

 そんな祖母も72歳で病院で亡くなった。亡くなって軽くなった祖母を自分が抱かえて乗用車に乗せて実家に連れて行った。父親の葬儀から一年しかたっていなかった。
 潮来の先生は、確か木か木部先生だった。潮来は父親が麻生高校に明石から自転車で通学していたので、通り道の中華屋、牡丹江に家族で行った事がある。
 子供の頃鹿島には病院が無かったので、バスで佐原の病院まで通った記憶がある。香取神宮の山にあった病院は、なんだったんだろう。眼科?歯科?耳鼻科?なんか動物が下の方で飼われていた記憶があるけど。
 佐原の街中の病院にも行った、耳鼻科だったと思うけど、凄い怖い先生で親が怒鳴られていた事を思い出す。弟が逆さまつげで治療したのも佐原の病院で、一緒に行ったので覚えている。
 子供の頃、鹿島から佐原には親とバスで行くのだが、必ず潮来あたりで、バスに酔って乗ってられず途中下車してた。遠足のバスも苦手だった。佐原の高校に通学するようになったときには、鹿島線が開通していたので助かった、バス通学だったら大変な事だった。
 子供の頃の思い出と言えば、夏休みの子供会で船橋ヘルスセンターに行った事だ。家族旅行で、そこで初めてクリームソーダとホットケーキを食べたかも知れない。よその家族が頼んだのを見て、自分も食べたいと注文して貰った。
 定かでない子供の頃の記憶があるのだが、夢だったのか現実なのか分からない思い出がある。鹿島のバスターミナルががんけの坂の上にあった頃、その端にフグを食べさせる店があって、父親と一緒に行った。壁にフグ提灯と、ヒレがいくつも張り付けてあった記憶があるから間違いないと思うのだが、誰も覚えてない。そこで何を食べたのかは記憶が無い。
 その近くにあったソロバン塾は、小学生の間でブームになったので、みんな通ったのでよく覚えている。ソロバン塾の帰りに大町にあった焼そば屋に寄って焼そばやカキ氷を食べる小学生で一杯だった。
 小学生の頃、鹿島の街中の親戚に遊びにいくと、高校生の従兄弟がいていつもコーラのホームサイズを飲んでいた。その頃は空瓶をお店に持っていくと10円か20円貰えた。高校生の従兄弟に言いつけられるままに、良く空瓶をお店に持っていって、そのお金でまたコーラを買ってこさせられた。
 当時の子供のジュースと言ったらバヤリースオレンジか三ツ矢サイダーと決まっていた。粉末のジュースが流行ったこともあった。家での夏の飲み物と言ったら、麦茶だが当時は砂糖が入っていて甘い麦茶だった。




  
Posted by ミツクニ at 19:18Comments(0)

2021年07月16日

ひろし


ひろし
No.20

 二十代で夫を戦争で失い、2人の娘を義母と2人で育てた祖母、静江は私たち3兄弟のおばあさんとして、食事から勉強、家の家事と3人の面倒をよく見てくれた。
 うちの母親は、婿取りで家のことをするよりも外に出て仕事をする事が好きな活動的な人であったので、必然的に娘に代わって家のことをこなしていた。
 祖母は5人兄妹の長女で、弟の長男と次男、妹2人の三姉妹であった。明治生まれの厳しい父親に育てられた。妹二人がお盆や彼岸には必ず家に挨拶にきたが、姉妹と思えないほど丁寧な挨拶をかわすのだ。手土産は老舗の和菓子で、今のようにコンビニの菓子などは持ってこない。
 仏間の畳に三つ指をついて、丁寧に挨拶を繰り返す。弟の次男も姉を慕っていたのだろう、ボーナスが出るたびに、掃除機などをプレゼントしてくれたのを覚えている。私が中々実家に帰れない時には、代わって畑の草を高齢の身なのに、良く刈ってくれた。
 祖母の信条は幼いころからよく聞かされた。日頃は節約に努めて贅沢をせず、村の寄付などを求められた時は恥ずかしくない額を寄付するようにと。ご先祖さまを大切にする。正月には若水と言って井戸から汲んだ水を毎朝門松にかけるように、小さい頃長男だからとやらされた。お盆の茄子や胡瓜の馬も祖母と一緒に作らされた。当時は北浦にお盆様を流したが、その藁の舟も祖母が作った。
 前にも話したが、農耕用の牛が女だと舐めて言うことを聞かないので、舐められないようにするのが大変だと。そんな祖母は、50代か60代に肺癌にかかった。子供だったので良く覚えてないが、丸山ワクチンを調べて、東京までいき田舎でワクチンを打てるように手配していた。
 鹿島にはまだ医院が殆どない頃、うちのかかりつけは潮来の何先生だったか出てこない。ちなみに母が三男を出産したのも潮来の病院だった。私と次男は自宅で生まれた。次男とは2歳違いだが、出産の時の事を覚えている。
 その潮来の先生に、東京から送って貰った丸山ワクチンを定期的に打ってもらっていて、何回かついて行ったので覚えている。わたしが第一エンジニアリングから帰ってきて今の会社に入ったばかりの頃、転倒して頭を打った影響か祖母は具合が悪くなった。
 それと同時期に母も、腎臓を悪くして手術になり入院していた。大学生だった三男の弟が、泊まりこんで付き添っていた。つれあいの父親はその前年に肝臓ガンで亡くなっていたので、私が祖母を面倒見るしか無かった。親戚の叔母さんに付き添って貰って、千葉大に検査に行ったり、入院させたりで、この頃が一番心細かったかもしれない。
 祖母はそれがきっかけで痴呆気味になり、鹿島病院に入院した。よく見舞いに行ったが、寝ていると良く寝言でうなされていた。男の名前、ヒロシヒロシとうわごとで言うので、夫を無くしてから独り身でいた祖母も想いのある男性
がいたのかと、若い自分は複雑な気持ちであった。
 その名前の主が誰であったか数年後?数十年後?判明した。仏壇の位牌を綺麗に拭いていたときに、寛志 享年5歳と書かれていた文字が見えた。そういえば、母の前に長男が産まれて幼くして亡くなったと聞いたことがあった。祖母は意識のはっきりしない中で、亡くなった子の面影を見て、名前を呼び続けていたのだと。



  
Posted by ミツクニ at 18:22Comments(0)

2021年07月14日

兵隊さんとぼた餅



兵隊さんとぼた餅
No.19

 私の祖父は、31歳でニューギニアで戦死したと戸籍にある。源蔵とゑいの長男豊男、次男が英二である。当然私は祖父を知らない。
 つれあいの祖母はわたしが26歳の頃の72歳まで生きた。子供の頃から、おばあさんと呼んでいたが今思うと小学一年生の頃おばあさんは52、3歳だったのだ。
小学生の時の勉強は、先生になりたかったという祖母が殆ど教えてくれた。
 その祖母が良く祖父豊男の事を話してくれた。二人の間には私の母と叔母の二人の娘がいた。その母が家を継いで、婿を取ったのである。私の祖母は祖父と従兄弟合わせで結婚した。3軒先の祖祖母の実家から嫁に来たのだ。何歳か年下の祖母は、家の前を通って通学する祖父を憧れの目で見ていたと話してくれた。
 農家の跡取りとして、鹿島農学校(現在の鹿島高校)に通い、卒業後も農業の研究会に行ったり、鹿島町内にあった漢詩の塾に通ったりしたという。出征前には、鹿島で初めて葡萄栽培を行い、販売していた。その葡萄畑も祖父の出征で駄目になってしまったという。
 最初の出征では近衛兵として徴兵された。言っていいのか分からないが、仏壇を整理していたら皇居の警備計画図が出てきた。その後任期を終えて帰ってきた祖父は、祖母に皇宮警察に応募したいと言ったという。祖母は、祖父に東京に行かれたくない一心で反対したと。しかし、もし皇宮警察になっていたら、ニューギニアで戦死する事が無かったと後悔していた。
 祖父が出征していた頃の話で、何々部隊が村に駐在した時、隊長はうちで滞在したらしい。うちの蔵に隊の物資を運び込んで保管したらしい。うちの庭に太い幹の柿の木があるのだが、その木に隊長の馬を繋いでいたと、よく子供の頃聞かされた。
 兵隊にはお盆に限り、墓参りだけが許されたそうだ。実家に寄ることは出来ない。それを知った祖母と母親の祖祖母は、ぼた餅を重箱に詰めて、お墓に備えたと言う。墓参りにきた兵隊さんの祖父がぼた餅を食べられるようにという親心であった。
 戦争を生き残った村の長老から、祖父が生きていれば村長として村のリーダーになっていたであろうと良く言われた。
 18歳の頃の日記が残っているが、病弱だった父親に代わって田畑の管理をし、どの田んぼから何俵の年貢が上がるのか、収支が記載された書付けが残っている。
 若くして夫を亡くした祖母は、義母とふたりで家を守り、娘二人を育てた。広大な田畑を女手で子供の頃まだ飼っていた大きな牛を操って耕した。女ばかりの女系家族に長男の私が生まれた時は、母と祖母の喜びはいかんばかりか、計り知れない。そのせいか、何をするのも危ない危ないと大事に育てられたせいか、大人しい子に育った様だ。笑






  
Posted by ミツクニ at 19:23Comments(0)

2021年07月12日

BIG BOX

BIG BOX
No.18

 高田馬場と言っらBIG BOX!
駅前に建つアミューズメントビルだ。今でもあると思うけど、もう40年前からあるんだよね。
 昔は赤の壁だったけど、今はネットで見ると青みたい。
 深夜の喫茶のバイト仲間と、朝6時に仕事を終えてBIG BOXのサウナに行く。サウナで風呂に入り風呂上がりにバスローブを羽織り、ピザを頼んで皆で生ビールを飲む。たまの贅沢な気分を味わえる時間だった。
 このBIG BOXでは、一階の広場でFMの収録が行われていて、おすぎとピーコのどちらか一人がよく出演していた。あのねのねもよく出ていたなあ。
 山口百恵のプレイバックpart2が流れ、当時新宿歌舞伎町で全盛だったディスコでは矢沢永吉の時間よ止まれがチークタイムの定番だった。
 BIG BOXにはボーリング場、クレー射撃ゲームなど、アミューズメントが揃っていて、よく遊んだ。
 食べ物で思い出すのが、駅前の交差点の白ゆりの反対側のビルの地下にあった、カッパ軒だ。中華の丼物専門店で、美味しくて大好きだった。牛肉煮込み丼、麻婆丼、その他中華のメニューを丼に仕立て、人気があった。特に牛肉煮込み丼が私のお気に入りでした。ググってみたがここはもう無くなっていて、残念だ。
 中華の丼物の発祥なんじゃないかな。
 高田馬場から西武新宿線で一駅の新宿歌舞伎町には、ディスコが全盛の頃でよく通った。新宿で派手なやつがいると、田舎の知り合いだったりで、田舎から出てきたやつほど、ファッションも派手だった。新宿には文化服装学院があったので、奇抜なファッションの子が結構いた。




  
Posted by ミツクニ at 20:34Comments(0)

2021年07月09日

パチモンの高級時計

パチモンの高級時計
No.17

深夜の喫茶店のバイトが本職になり、大学に行かなくなった。深夜のバイト仲間は早稲田の2部の学生が多かったが、本職やヤバイ経歴の人もいた。
 バイトから社員になり深夜から朝番のホールに移った。朝番はモーニングとランチの2度ピークがある。しばらくホールのウェイターをしていると、自分がぼっちゃんと呼ばれている事に気がついた。ボーッとしている方のぼっちゃんだ。回転の速い、早番の動きについていってなかったらしい。
 そんな事もあったが、ホールの仕事もこなせるようになり、主任になった。朝の喫茶店は一人客が多く、一人でトレーにお冷を20個近く持ち、無くなるまで20人分のオーダーを取ってくる。当時は、全部頭に入れてキッチン前に戻ってから、伝票を書くのだ。今では神業の様だが、誰もが当たり前にやっていた。
 そうこうして、2年でサブマネージャー、黒服まで上り詰めた。
従業員を集めてのミーティングでは挨拶の仕方から声の出し方、サービスの仕方まで教育した。営業中も声が出てない従業員を呼び出しては、注意をしたり教育には力を入れた。
 バイトの面接採用もした。当然可愛い子が面接に来れば、時給高めで採用した。新しいランチメニューや食事メニューも考えた。食事メニューも増えて、ハンバーグやカレー、生姜焼きもやる様になった。そのおかげで、自炊には困らなくなった。
 21か22歳の頃の話である。
やばい経歴の人の話は面白かった。パチモンの時計を高級時計と偽って、田舎の街から街と旅しながら売るのだ。
 昔のスポーツ新聞には、高級スポーツカー運転手募集という求人広告が必ずあった。4人1組でスポーツカーに乗り、売れるまで帰れない旅に出るのだ。
 すみませんがこの時計を買って頂けませんか?高級時計を扱っているんですが、火事にあいましてどうにか時計だけは持ち出したんですが、着の身着のままで。普段の売値は100万何ですが、どうしても現金が欲しいので5万でいいです。という感じで、ホテルでロールプレイングまでして新人を鍛えて売り歩く。売り尽くすとさっさと別の街に移動するのだ。
 




  
Posted by ミツクニ at 21:04Comments(0)

2021年07月07日

喫茶 白ゆり










喫茶白ゆり
No.16

 第一エンジニアリングに入る前、大学に行かず喫茶店で働いていた時のこと。住んでいた高田馬場の思い出。昭和53年1978年に時間は戻る。
 大学に入って、体力と暇を持て余していた私は、深夜のバイトを始める事にした。高田馬場の駅前の交差点の地下鉄東西線の階段を降りた地下一階にあった喫茶白ゆりだ。最初はキッチンに入り、一年程で料理を覚えた。
 喫茶店なのでナポリタンやピラフ、サンドイッチ、パフェ、と料理は簡単なものだった。焼きプリンは本格的で、深夜組が仕込みを担当した。卵と牛乳と砂糖、バニラエッセンス、砂糖を煮詰めてキャラメルも作る。業務用のオーブンで蒸し焼きにして、20個ぐらい作るのだが、出来上がりのタイミングが難しい。柔らかければ崩れてしまい、硬ければ美味しくない。すが入らないように焼き上げる。
 スパゲティは茹でて、サラダ油をまぶして、冷蔵庫に一晩置く。今のパスタと違い、昔のナポリタンやミートソースは、茹でて一晩置いた麺を使うのだ。
 この白ゆりは、ルノアールとと同じような大型喫茶店で、朝から翌朝まで営業して、1日1,000人の来客がある、繁盛店だ。高田馬場駅前の交差点、東西線の入り口にあるので朝はモーニングセットを頼むサラリーマンで一杯になる。昼もランチを求めるサラリーマンや学生で混雑する。
 高田馬場という土地柄、早慶戦の時には早慶戦後の飲み会で酔った早大生の団体が押し寄せる。深夜に近い遅い時間に、20人や30人の団体が何組も入ってくるのだ。飲み方を知らない新入生がベロベロになって担がれてくる。注文は大抵パフェだ、フルーツパフェやチョコレートパフェが20個.30個と注文される。
 チョコレートパフェなら手間がかからず何個でも簡単に出せるが、フルーツパフェとなると、リンゴを笹切りしたりしなければならず、キッチンはパニックになる。当時で1日50万を売り上げた。
確か当時は、阪神の岡田が鳴り物入りで早稲田の野球部に入り、大学野球も盛り上がっていた。
 店でかけるレコードはマネージャーが選べるので、この頃流行ったジャズのヒュージョンや映画音楽を選んで買えるのが嬉しかった。グローバーワシントンJr.のワインライトがお気に入りでした。


  
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2021年07月05日

肝臓ガン



肝臓ガン
No.15

 第一エンジニアリングの話しに戻ろう。
 3年目位の時に、父親が肝臓ガンになり、当時は肝臓は切れないと言われていたが、波崎の労災病院にたまたま名医がいて、手術できることになった。手術は成功して術後も自宅で静養していた。
 母とすれば今後の心配もあって、長男である私に帰って貰いたく、赤津社長に何回か手紙を出したようだ。
 そういうこともあってだが、コーヒーメーカーの開発製造に、自分なりに行づまりを感じていた。赤津社長も父親を若くして無くしていて、それをきっかけに武田社長の所を去ることになった経験から、留まるように説得されたが退社して鹿島に帰ることになった。
 帰省してまた、従兄弟のアニキに、懇意にしているやり手の社長がいるから、会ってみないかと言われる。その社長の会社はまだ小さいが、コンビナートの大手化学会社の仕事を直接しており、将来性抜群だと。
 その社長とアニキの間の話では、私が入って仕事を覚えたら子会社を作るという事になっていた。また同じような話しなのだが性懲りも無くその社長宅にアニキと会いに行く事になるのである。
 会社の後輩に、何で○野辺さんはうちに入ったの?と聞かれた答えがこれだ。
 ここから先の話は、10年後に語る事にしよう。







  
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2021年07月02日

農家の屋敷










農家の屋敷
No.14

今入母屋の和風、書院造り50坪を建てると坪80万で4,000万というところか。小学生の時に建てたのだから、自分の家の山と親戚の山から松の梁と杉の柱を調達して、庭で木の皮を剥いだのを覚えている。棟梁は、親父の明石の同級生、子方の若い衆と年配の職人の3人、かかっただけの常用払いである。材料、金物は当家が買って支給する。
当時最新の水冷クーラーを入れた。井戸水を使って冷却フィンを冷やす仕組み。鍋物がダイニングテーブルで出来るように、ガスの配管コンセントも床に取り付けた。お風呂は、灯油のボイラーで給湯する。村では初めての二階建てだった。
 母屋の新築の後に米の乾燥機が入る天井の高い物置倉庫も建てた。当時の屋敷内には、豚小屋、鶏小屋、杉の枝を入れておく燃料小屋、製茶のための大きな焙烙の小屋、牛小屋、肥料小屋、があった。直径2メートル程の丸い水槽があったが、何の為なのか覚えていない。防火用水かな?農業用の貯水?
 母屋以外に蔵と言って、蔵と隠居屋がくっ付いた建屋もあり、まだ健在だ。家の北側には1.5m程の土手が盛ってあり、その上に槙の生垣がある。他の三方は1.8m程の槙の生垣で囲われている。
庭には農家には珍しく古くからヒバや槙の植木が植えられて、灯籠や小さな池もあった。どの時代の誰が庭を作ったのか分からないが、物心ついた時から植っていた。
 なぜ農家には珍しいのか、昔米農家は庭一面に筵を引いて籾米を天日干しするので、植木を植える場所も惜しかったのだ。
 今でもあるが、屋敷の西側にニッキの木があり、子供の頃、誰に教わったのか、ニッキの根を掘って乾燥したものをかじるとニッキの味がした。タケノコの皮で梅干しを包んでしゃぶったり、ヤツデの実を玉にして竹鉄砲を作ったりしたものだ。


  
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2021年06月30日

海鮮酒家 海皇










海鮮酒家 海皇
No.13

そんな叔母からの食事の誘い。
東京で大学生だった弟と叔母の妹、4人。日本橋の会社で待ち合わせ、タクシーで食事場所に向かった。
赤坂の海鮮酒家 海皇(ハイファン)グルメだった叔母の最近のお気に入りらしい。日本橋に遊びに行った時も、親子丼や大好物の鰻を食べに連れてってくれたが、子供だったわたしは、そこが有名店
だったなどと分かるはずもなかった。
入口に○野辺 様歓迎の黒板が。
高級店の雰囲気に緊張した。
流石に料理もよく覚えている。
車海老に老酒をかけると、海老が暴れだす、直ぐに給仕が蓋をして動かなくなったところを生で頂いた。もちろん初めてご馳走だ。
海鮮酒家だけあって、メインは黒鯛の刺身にナッツ類が刻んでかけてあり、野菜の千切りとピーナッツオイルで和えて頂く。
スープは当然エイヒレ。当然美味しくてまた、海皇に行ってみたかったが未だに叶っていない。
その時の叔母はもう、取引会社に何度も不渡りを出されて、会社を畳み引退していたが、今思えばこのくらいの贅沢が出来たのだ。
叔母の会社が危なくなった時、鹿島開発で土地が売れて、600万で今の入母屋の二階建て50坪の家を建てた。その残りが400万あったが、それを知った叔母に母が懇願されて貸したが、それが戻る事は無かった。





  
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2021年06月28日

鎌倉とグリーン車






鎌倉とグリーン車
No.12
子供の頃から聞かされた家の歴史を伝えられたら。

本文

この叔父が亡くなった時の事を覚えている。私の祖母も若くして戦死した豊男亡き後を、二人の娘を曽祖母と二人で農業をしながら育ててきた人だ。
小学生の私と祖母と寝ていたのだが、祖母が朝方突然玄関に英二さんが来たと起き出して行った。
そんな日、叔父が亡くなった知らせが届いた。
夫を亡くした叔母は、会社を継がなければならなかった。
それでも女社長として、苦労を重ねてそれなりに存在感を得るようになった。鎌倉からグリーン車で毎日日本橋に通うことを聞かされて、グリーン車の存在を初めて知った。
洋服、着物は三越の仕立て。田舎に来る時は、いかにも東京の人的な派手なワンピースに三越の買い物袋にお土産の洋菓子を持ってきた。
母の祖父の源蔵も身体が弱かったので、農家の長男にも関わらず農業は、妻に任せて保険屋を自転車でやっていたという。
この源蔵爺も良く東京の白木屋デパートに行って、トランクにお土産を買ってきてくれたと母が話していた。この叔母の存在は田舎の母や私に影響を与えた事は間違いない。
叔母は、銀行に入る前に日劇ダンシングチームに憧れて、願書を出したら合格通知が家に届いたというくらいの女性だ。厳格な父親に合格通知を破られて、子供だった叔母はそれで諦めてしまったらしい。
そんな叔母が夫が出征している間、鹿島の実家に疎開したことがある。陽気な叔母は、たちまち村の有名人になり、わざわざ見に来る若者までいたそうだ。その時のファンの爺さん達にも後年話をよく聞かされた。
鎌倉に遊びに行くと、もういい年だった叔母が小学生の自分を材木座の海岸に海水浴に連れていってくれた。水泳もプロ級だった叔母が泳ぎも教えてくれた。
プールで泳げばその綺麗な泳ぎに見物人が出来、鹿島の明石の海では、地元の若者に混じって女一人沖の漁船まで泳いだという。
男達は漁船に上がり休ませて貰えたが、女は船に乗せられないと船縁につかまって休んだと言っていた。


  
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2021年06月25日

オニマとチーちゃん






オニマとチーちゃん
No.11

第一エンジニアリングに入って2年目ぐらい、24歳ごろだろうか。東京の親戚の叔母様から食事をしようとお誘いがあった。
叔母様と言っても、母の義叔母でまだ60代だった。
母の若くして戦死した父豊男の弟英二の連れ合いで、子供の居なかった叔母は母を子供のように可愛がり、自分も孫のように可愛がってくれた。
大学を中退して、心配していたようだが、真面目に働いていると知って少しは安心したのだろうか。
この叔母も、夫を50代で亡くしている。
農家の次男だった英二は高校に進学する事を許されず、中学卒業すると横浜銀行にでっちに出された。銀行でのお茶汲みから始まって、夜学に通わせてもらったのだろうか、銀行の業務をするようになる。
非常に優秀で仕事が認められるようになるが、この当時でも後から入ってくる大学出が出世していくのを辛い気持ちで見ていたのである。それでも後に、神奈川の日本油脂に出向し、部長の職についた。田舎の母(私の曾祖母)に部長の椅子に座った写真を添えて、判子を押す立場になったと手紙を送ってきた。
日本油脂で塗料の製造を学び、のちに日本油脂に顔料を卸す商社として、独立するのである。日本橋に構えた会社は日新物産。
英二の連れ合いとなる叔母は、銀行員の硬い家庭に育ち、横浜銀行に就職して英二と結ばれることになる。
この叔母は発展家で、当時銀行の慶應ボーイや一流大のボーイフレンドと石神井公園でボートに乗ったりデートを楽しんでいたそうだ。
そんなモテモテの叔母が、大学出でも都会の人でもない英二さんを選んだのよとお惚気を聞かされたことがあった。
世田谷に初めての家を買って所帯をもった。4、5歳のころ母に連れられて泊まりに行った写真がある。遊びに行くと夕食はすき焼きで叔父が鍋奉行してくれた。
家には叔母の独身の妹も同居しており、叔父のことをオニマと、姉の事をチーちゃんと呼んでいた。
お兄様を約してオニマ、三姉妹の次女なのでちっちゃいお姉ちゃんでチーちゃん。
チーちゃんが連れていってくれた、世田谷のスーパーマーケットの記憶が鮮明に残っている。すっごい明るい照明に商品がならび、そこは外国のようで、ハーシーズの板チョコのおっきいのを買ってもらったのだ。
その後、会社も大きくなり、故郷の鹿島に海があって似ているというので、鎌倉に家を建てる。
よく遊びにいったので、坂を登った鎌倉市西御門をよく覚えている。家を建てて、母親を初めて箱根に旅行に連れて行って親孝行をした後、病気で52歳でこの世を去ることになる。


  
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2021年06月23日

ホームメイドサービス






ホームメイドサービス
No.10

フランチャイズの企画を売り込もうと考えた。
札幌には単身赴任者が多く、男所帯で掃除とか洗濯とか困っているに違いない。それも大手企業の社員が多い。
ダスキンのサービスの一環として、部屋の掃除や洗濯を週何回か契約して請け負う。奥さんの中にも注文する人がいるだろうしその発展型で、家のリフォーム、庭の手入れまでサービスをひろげる。
まだワープロも普及していない頃、手書きで人件費を計算して企画書に仕上げた。
わざわざ主婦が家の掃除をお金を払って頼むだろうか?単身者の部屋に女性が入って問題が起きないだろうか?確信がないまま、企画書は提出されたが採用される事は無かった。そのサービスの名前はホームメイドサービスと名付けた。
オフィスコーヒーサービスのダイオーズも加盟店が爆発的に増え、新しいコーヒーメーカーの開発を自社で考え始めていた。
千葉にあった精米工場の修理担当で採用された大学の理工学部を出た社員と話すことがあった。
向こうは、こちらを機械の専門家だと思っていたのだろう。
「○野辺さん、熱交換器って詳しいんですか?」
「すみません、その辺のところは専門じゃなくて。」
あらゆるヒーター、温めたり冷やしたりする物を熱交換器と言う。
当然そんな事も知らないので、誤魔化すしか無かった。
そんな忙しい毎日を送っていたが、学生時代良く通っていた新宿に一人遊びに行ったことがあった。
新宿西口には、学生時代友人が三畳間に住んでおり、良くウロウロした街だ。夜になって、しょんべん横丁の反対側のビルを見ると、女子大生パブのネオンが見えた。この頃、世の中は女子大生ブームである。テレビを賑わしていたのは、タレントで無く女子大生だ。女子大生で作られたおニャン子クラブが大ヒットするのは昭和60年で、数年後の事である。
ブームにつられて女子大生パブに入ってみた。丸テーブルに、白い皮の椅子が4つ。その一つに座ってハウスボトルの水割りを飲んでいると、若い女の子が席についた。
ミニスカートにちょっと太目の脚。脚には白のウェスタンブーツを履いている。
話をすると、京都から上京してきたと言う。実は女子大生ではなく、歌を勉強しながらアルバイトしているという。そうこう話していると、ショータイムになり、その子がステージに上がった。なんの曲だったか、ロック調の曲を個性的なハスキーボイスで歌い上げた。ショーが、終わって席に戻ると、プロを目指していると言う。
「君、上手いよ!絶対プロになれるよ。」高校時代、アマチュアバンドをやっていて、ロックには詳しいと盛り気味で、音楽業界の事を教えたのだった。
まず、デモテープを作らないとね、スタジオを借りるは大変か?とか知ったかぶりで話したものだ。
中村あゆみ。その店でもそのままの名前で出てた。
3年後の昭和60年に翼の折れたエンジェルで大ヒット。
同じ名前なので、あの時の子だとすぐ分かった。




  
Posted by ミツクニ at 19:13Comments(0)

2021年06月21日

フランチャイズ






フランチャイズ
No.9

本文
コーヒーメーカー、電気工事、出荷業務、順調に行っている様に見えた。
そんな時、北海道に営業所を出す事になった。明電舎かいすゞの発電機関係の代理として、営業するのだ。一緒に住んでいる若いのが北海道に行く事になった。
この辺の記憶は自分が行ってないのであまりないが、北海道の札幌では当時、単身赴任者の事をさっちょん族と呼んでいた。
本土からの単身赴任者が多く、さっちょん族同士、楽しくやっていたようだ。
アメリカを視察した時にオフィスコーヒーサービスを日本で展開したダイオーズは、はじめダスキンのフランチャイズで店を増やしていった。その後ダスキンが小僧寿しを始めると、またそのフランチャイズになり、多店舗展開する。
元々、親が米屋の関係から小僧寿しに精米した米を供給していた。
その精米工場が千葉16号線沿いにあった。
そこにはコーヒーメーカーの修理を担当する社員がいて、良く部品を届けに行った。
フランチャイズを展開する商売が流行った時代だと思う。
企画屋の広友のの社員と話していて、何かいいビジネスモデルを考えて、企画を売り込もうと言う話になった。
広友社と言えば、当時、機能を絞った温めるだけに特化した電子レンジを企画していた。
そんなの売れるのと思っていたが、劇的に増えてきていたセブンイレブンで使うとは、考えもしなかった。
ホダカ物産のメインの客がイトーヨーカドーであり、そのイトーヨーカドーが始めたのがセブンイレブンである。セブンイレブンが一号店を出店したのが昭和49年、その7年後ぐらいの話である。




  
Posted by ミツクニ at 20:02Comments(0)

2021年06月18日

無茶振りとお茶け






No.8

本文
第一エンジニアリングに入って、1年か2年経って鹿島へ工場を作る事は簡単でないことがわかってきた。いつまでも丁稚奉公ではしょうがないと言うので、正式に社員になり給料をもらえる様になった。
赤津社長にやった事もないことを良く言いつけられた。
お客の工場に行って、一人で火災報知器の点検をしてこいとか、足場屋に足場を借りて、倉庫の天井の電灯を職人と2人でつけてこいとか。
火災報知器の点検とか、今は現場で見てわかるけど二、三人でやってるじゃ無いですか?何も知らない、やった事もなくて、心細いったら無かった。
足場だって、今でこそ専門家でどんな高い、大きな足場でも問題ないが、ローリング足場なんてものの存在も知らない人間が、リース屋に行って、会社のそれもトラックでなくワンボックスのエルフに無理矢理乗せて現場まで運んで、倉庫の天井に届く様に、5段9mを組んだ。高いところは怖くはないが、控えもなしの一列5段は上に乗るとフラフラして、怖かったのを覚えている。とにかく色々やった。
内職周りもやった。自転車部品を袋に詰めて、ヘッダーをホチキスで留める内職を、近所の内職者の家を回って置いてくる。
団地の奥さんや、煙草屋のおばあさん、お店が暇な時にする人。
梱包の定年上がりのおじいちゃんが割り振るのだが、運転が出来ないので、私がエルフのディーゼルを駆って、一緒についていく。
内職は、何円何十円の安い仕事だが、割りの良いものと悪い物がある。何回か一緒についていくと、割りの良いものを充てる人は、いつも同じ事に気がつく。
その家では、お茶でなく透明な飲み物がコップに入って出るのだ。
一個何円の仕事でも、人間の機微を見た気がした。




  
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2021年06月16日

セールスドライバー










No.7
佐川急便が会社に荷物を届けに来て思い出した。川口にいたあの頃飛脚の佐川急便も関東で急激に営業を広げていたなあ。

本文

プロレスラーの様なガタイのいい男が2人、倉庫に入ってきた。
一人は彫りの深いイケメン、もう一人は頭ツルツルの強面。どちらも服を着ててもわかるムキムキマンで身体も大きい。
「荷物の出荷を扱わせて貰えませんか?価格は相談させて頂きます。」
運送屋の集荷時間に間に合う様に荷物を作るのに忙しくて苦労していた。
「何時でも集荷しますよ。」
ムキムキマンと話をするうちに、彼らは元佐川急便マンで新しく運送会社を立ち上げたところだと言う。
当時、佐川急便と言えば月100万稼げると有名であった。ただし、超スパルタ軍隊式で、全て駆け足、その厳しさは有名で佐川に入るのは、借金しているかよっぽど根性のある人間でないと務まらないと言われた。たしか、ワタミの創業者の渡邊氏も創業資金を作る為に佐川急便で働いたと聞いた事が有る。
セールスドライバーと呼んで、運転手に集荷の営業をさせたのも佐川急便で、セールスドライバーという言葉は、佐川の商標登録となっている。
流石、元佐川急便マン、セールスドライバーとして、仕事を取っていった。やる気満々の彼らに共感して依頼したのだが、いつも一緒になって、出荷、積み込みなどを夜遅くまで手伝ってくれた。
自分以外はパートの女性だったので、ムキムキマンは本当に力強かった。
佐川急便から独立して作った運送会社がNET47、宮岡運送である。川口の会社の近くにあったので、営業に来た様だ。川口市は足立区と隣り合っていて、足立流通センターがあったので、運送屋も多かったのかも知れない。
NET47て何?と聞くと、47都道府県にネットワークを築いて荷物を届けるんだと。見た感じ、まだ何台もトラックがない様だが、トラックの横に大きく書かれたNET47だけは、かっこ良かった。
宅急便のクロネコが出来たのが昭和51年、その後4年後の話しである。
今の会社で群馬に来て、カラー鉄板を工事で使う為、注文するのだが、一本40キロある鉄板コイルを40本から60本一度に配達してもらう。ドライバーは、このコイルを手降ろしで倉庫に運ばなければならない、キツい仕事だ。
手伝いたくも、腰をやられるので止める様言われている。
このトラックの横にNET47の看板を見た時は、まだあったんだと驚いた。25年振りぐらいの再会で思わずドライバーに、状況を聞いたものだ。一緒に夢を追った会社が今も活躍しているのは嬉しい。
















  
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2021年06月14日

 パーマン 藤子不二雄


No.6


本文
赤津社長は、いかにも学生の頃は悪大将という感じの熱血感。親分肌で人懐っこい顔で笑うところに惹かれた。
穂高物産の社長、武田光司は男でござると小説にも書かれたが、まさにその系統を継ぐ赤津博徳は男でござるそのものだった。
自分も凄く感化されたに違いない。失敗も成功も、こう言う人たちに影響された賜物だ。
また、私は男でござる系の社長に仕える事になるのである。
赤津社長は零細企業なのにどういうわけか、三菱商事とかいすゞ、紅茶を輸入していた丸の内の商社の担当を直接知っていた。
いすゞの人との接待に連れて行ってくれたり、丸の内のビルの打ち合わせにも連れて行ってもらった。そこで、第一エンジニアリングは、コーヒーメーカーの開発をしているという話を売り込んでいた。
実際、第二世代のコーヒーメーカーを開発しなければならないが、誰も専門家などいない。
当時、メイテックという技術屋集団の派遣会社が初めて出来て脚光を浴び始めていた。
その記事を読んで、これは使えるのではと。
新宿の高層ビルに訪ねて行って、担当者に話をした。メイテックなは、まだ家電の専門家がいないと話が流れたのか、上手くいなされたのかは、覚えていない。
広告代理店の広友社で、覚えているのは、企画書を当時まだ普及していないワープロを導入して、辿々しく使っていた事。
JALの鶴丸を考えた超有名デザイナーを使っていた事。
連休の時など、赤津社長は日立に、私は鹿島に帰省するのだが、日立を回って一緒に帰ろうと良く誘われた。赤津社長の自宅に寄ると、必ず泊まって行けと泊まらせられる。奥さんには食事、パンツの洗濯までしてもらって可愛がってもらった。
赤津宅の味噌汁は、味噌汁の様な吸い物の様な、潮汁風の味噌汁で初めての味でよく覚えている。
今思えば、血圧の高かった赤津社長の健康を考えての事だったのかも。
私を泊めたのも、実は奥さんと夫婦喧嘩中だったという事実も。
赤津社長には、男の子が2人いて家に帰ると、家からすぐの砂浜でキャッチボールするのが楽しみだと良く話していた。
下の子が5歳くらいの頃、良く川口の事務所に奥さんが連れて来ていた。当時パーマンという藤子不二雄のテレビアニメが流行っており、工事用のヘルメットに目と、耳をボール紙で作ってやって、パーマンごっこで遊んでやった。
その子が昨今、連絡を取って来て今ではFacebookで繋がっている。
現在、私は63歳、赤津社長も現在で73才のはず。







  
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2021年06月11日

ホダカ物産 自転車部品

No.5
本文
電気工事、防災点検、コーヒーメーカー組立、自転車部品の出荷請負。自転車部品の出荷業務は、穂高物産の社員との共同作業であった。当時はどの様な請負形態か分からなかったが、穂高物産の社長の武田が赤津に赤字を負わせることは無い事は分かった。
昼間コーヒーメーカーを組立、夜は捌き切れない程の注文をこなす為にピッキングを手伝い、夕飯を食べる暇もなく、川口から社宅のある足立区の綾瀬までエルフで通った。夕食を食べて家に着くのはいつも11時頃だった。
暫くして、赤津社長の地元日立の同級生が八百屋を辞めて、赤津の話に乗って、出荷業務の責任者としてやってきた。一緒に若い青年も連れて来た。私より年下で20歳くらいだったと思う。その若いのと、同じ部屋で暮らす事になり、通勤も一緒であった。
夢を語る漢気の者たちのやり取り。従兄弟のアニキと赤津社長のやり取りで、私の給料は無給、私も仕事を覚える為だからと納得。流石に無給では暮らせないだろうと、私の給料は、アニキの会社から10万円払うと。当時でもこれは問題外の額、学生時代東京で喫茶店でバイトが本職になってしまったが、20万稼いでいた。
男の夢に金の事は関係ないのだ。笑。たまに早く仕事が終わると赤津社長が夕食をご馳走してくれるのだが、ここぞとばかり、食いまくって仇を取った気になったものだ。今では一人前も食えなくなったが、若い頃は果てしなく食えたのが懐かしい。
一緒の若いのは、ひょろっとした細い体型で、体力も無かった。
たまの休みの前日の夜に、無理やり遊びに引っ張っていくのだが、うつらうつら船を漕いでたのを思い出す。



  
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2021年06月09日

ホダカ物産 マルキン自転車


No.4
本文
会社の入っていた大きな倉庫は、完成自転車をスーパーに卸す事業が軌道に乗ってきた穂高物産のものだった。
穂高物産はそこで、スーパーで販売するために、自転車部品を袋に詰めてイトーヨーカドーなどに出荷していた。
今で言う、各店からの注文をピッキングして発送するセンターである。
ベルやタイヤ、チューブに自転車カゴなど、あらゆる部品が棚に納められていた。
その棚の間を伝票を持って、注文品をピッキングしていく。グルグル棚をまわり、朝から晩までこれを繰り返すのだ。
一店舗分の品物が揃うと、どこかの会社の定年上がりのおじいちゃんが、ダンボールに詰めていく。一つ一つ量が違っても、ダンボールに器用にカッターで切り込みを入れて折り畳み梱包していく。
後は運送会社が配送するのだが、間に合わなかったりすると、一個でも届けなければならない。
その仕事がよく私に回って来た。
当時いすゞのエルフのワンボックスのディーゼル車が第一エンジニアの社用車だ。もちろんかなりの中古だ。
それに乗って、イトーヨーカドーの何何店と言うだけで、東京の店舗に夜、納品しに行った。
今は、スーパーよりホームセンターがこの形態だが。品物をビニールに入れて紙のヘッダーと言われる厚紙にホチキスで止めたものをフックに引っ掛けて販売していた。その後、真空パックが主流になってくるのだ。






  
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2021年06月07日

オフィスコーヒーサービス

No.3
週3回月水金の夜6時から10時まで4時間血液透析をして病院のベッドにいる。もう14年。
いつも、寝ているかテレビを見ていのだが、スマホでこれを書くには丁度良い時間である。


本文
コーヒーメーカーの製造を今まで作っていた会社から移管して第一エンジニアで製造する。
プラスチックの本体は、どうしたのか知らなかったが、金型を持つ従来の会社に依頼した。
その他の部品は金型も引き上げて、新たに製造先を探さねばならなかった。
川口という土地柄、多くの多様な工場があった。電話帳で職業欄をみて目当ての工場に行って、見本を見せてこうゆうものが出来るか聞く。それを繰り返すうちに、結構詳しくなっていった。
電話帳で探したり、その工場の社長から紹介して貰ったり、またその繋がりをたどったりでどうにか部品を揃えた。
しかし、ど素人のあんちゃんにすれば、後でこうすれば良かったと思う事は沢山あった。
例えば保温皿だが、金型で鉄皿を加工し、それに取り付けのステー金物をスポット溶接し、ホーロー加工をしてもらう。
何百個か作った後に、何個か溶接の歪みが影響してホーローが剥がれる欠陥が出た。
経験値か専門家かなら、何でもない簡単な事だったろう。
しかし、誰もそんな事を教えてくれる人はいなかった。
組み立ては、前の会社で責任者をやっていた人に来てもらい指導してもらう事になった。
社長の赤津さんは、電気工事の方で忙しくいつも会社には不在で、自分ひとりだった気がする。

パートさんを募集して、5人の主婦が、採用された。
若い人が20代後半、上が40代。みな近所のママさん達だ。
指導員の方に組み立て方を、教わり自分も一緒に組み立てに参加した。
なんだかんだ色々あったと思うが、どうにか完成品が出荷出来る様になった。
プラスチックといっても、ABSとか種類がある事。接着にはアセトンを使用、アセトンはABSを溶かして接着する事など、知らない事も多かった。

  
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2021年06月05日

第一エンジニアリング再投稿

No.2
会社の名前は(株)第一エンジニアリング
立派な社名である。電気工事業で防災工事を得意としていた。赤津社長の親分である穂高物産の工場の電気工事、防災工事を一手に請負、結構大手の工場などの防災点検なども職人を使ってやっていた。
赤津社長の営業力で結構仕事を取っていたようだ。今思うと営業力(ハッタリ)が凄かった。

後年小説を読んで理解したのだが、オフィスコーヒーサービスを始めた大久保社長と広友社社長の葛巻は読売広告社の同僚であった。

文化放送のカリスマ営業であった武田とCMを扱う読売広告の葛巻。葛巻が独立して広友社という広告会社を赤坂の雑貨ビルの一室に構えた。

武田が独立して一号社員の赤津とともに、広友社の事務所の机を借りて営業していた。

そのオフィスコーヒーサービス、(株)ダイオーズの企画に参画していたのが広友社だった。
ダイオーズの大久保社長がダイエーの創業者である中内社長に心酔して、エの次のオでダイオーズとつけたと当時聞いた。

ダスキンと小僧寿しのチェーン店であったダイオーズが、アメリカから初めてオフィスコーヒーサービスを日本に持ち込み、自らフランチャイザーとなったのである。
ダイオーズを検索してみたら、一部上場会社になっていた。社長も大久保氏で80歳と。

当時、今のバリスタの様なコーヒーメーカーは無く、大手の家電会社も作っていなかった。
広友社が企画して、オフィスコーヒーサービス用のコーヒーメーカーを家内工業の小さなアッセンブリー会社に依頼していた。

コーヒーメーカー自体は、プラスチック本体と、湯を沸かす電気ヒーター、保温のためのホットプレートのヒーターとホーローの受け皿、電源スイッチと電線、シャワー口のステンレスの金物、シリコンチューブとステンレスチューブとネジ類、簡単な作りであった。














  
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